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https://cnwt.hp.infoseek.co.jp/pdf/son-j1.htmlの 部分魚拓

 

  恐らく孫正義を知らない人はいないだろう、彼とソフトバンクは間違いなく未来のいつかにマイクロソフトを抜いて世界一の座に就くでしょう.なにもしてあげられないけど、応援。


「それから」
 
  孫正義が泣いた。
  96年2月。毎日新聞社が前の年に活躍した経営者に贈る「毎日経済人賞」を受賞したときのことだ。
  その授賞式のスピーチで彼はこう話したという。
  「幼いときにリヤカーに座っていました。
  ぬるぬるして気持ちが悪かったんです。
  今は亡き祖母がリヤカーを引っ張っていました。
  近所から残飯を集めて豚の餌にするんです。
  ぬるぬるして・・気持ち悪かった。
  がんばっていたのです・・・・。私もがんばって・・・。」
  孫は声を詰まらせ涙ぐんだ。
  彼が公の席で、こうした顔を見せるのは初めてのことだった。
  同時に受賞したジャスコ会長の岡田卓也は、その時の様子をこう話してくれた。
  「皆、シンとしましたよ。そんなことがあったんか、ということを初めて知ったわけですからね。報道されるのは華やかな孫さんの買収の話ばかりだからね」岡田は本当に驚いたと繰り返した。
  私が孫に初めて会ったのは、九四年十二月だった。
  その時私は、TBSの報道番組のデイレクターとして、マイクロソフト社会長のビル・ゲイツを取材していた。千葉県幕張市で開かれたイベントに出席するため来日していた彼を、カメラクルーと共に追っていたのだ。
  彼が日本に到着した翌日、幕張の会場でビル・ゲイツを出迎えたのが、孫正義だった。紺のスーツに、白いワイシャツ、臙脂と紺のストライプのネクタイ姿の孫は、やや緊張した面持ちでゲイツを迎えた。ゲイツの肩を少し越えるほどの身長の孫は少年のように見えた。ただ童顔でありながら妙に老成した風貌と、人なつっこい笑顔の中に漂う自信にあふれた表情が印象に残った。
  イベント会場はマイクロソフト社関連の製品で広いスペースが埋め尽くされ、主役はビル・ゲイツだった。彼のまわりにはすぐに人だかりができた。ゴルフトーナメントで、スター選手が移動するとギャラリーが一緒に移動する光景に似ていた。おいてきぼりをくったギャラリーは、早足で先回りをし主役の到着を待った。
  案内役の孫に注目する人はほとんどいなかった。
  私も孫にはまるで興味を持っていなかった。当時、私が彼について持ち合わせていた知識といえば、その年の七月に自分が興した会社の株式を店頭公開し大金持ちになった経営者、ということくらいだった。
  「ビル・ゲイツはどんな人ですか」
  主役の映像を一通り撮り終えたあとで、ついでに、といった気持ちで孫にもマイクを向けた。
  「ビル・ゲイツは天才です。彼はオペレーションソフトという、いわば地べたを押さえているので、勢力地図が急に変わって、彼がすぐに負けることはありえないんです。ですから決めたのは、彼と重なる事業はやらないということなんですよ」
  彼はゲイツを雲の上の人と評してみせた。
  孫にはビル・ゲイツのことを聞いただけで、彼自身については何も聞かなかった。
  それでも彼は脇役としての立場を十分に楽しんでいるようだった。今思えば、彼自身の中ではビル・ゲイツの方が脇役だったのかもしれない。なぜなら、この日のイベントを主催した「ジフ・デービス・コミュニケーションズ」という会社の展示会部門を、その直前に百二十七億円で買収したばかりだったからだ。彼にとっては展示会のオーナーとしてビル・ゲイツを案内する初めての晴れ舞台だったのである。
  孫正義は、八一年にパソコンソフトをメーカーから仕入れて販売店に卸す商売を始め、「ソフトバンク」を設立。九四年に株式を店頭公開し、一夜にしてを二千億円の資産を手にする。
  幕張で孫に初めて会ったのはこのころだった。
  彼はその後、わずか二年の間に、世界一のコンピューター展示会を主宰する会社やコンピューター雑誌の出版社など、アメリカ企業七社を次々と買収。買収額は四千四百億円にのぼった。アメリカ企業ばかりをこれだけの短い間に買収するやり方は、日本の経営者では例がなかった。
  そして九六年、孫はルパート・マードックと組んでテレビ朝日の株式の二十一・四%を取得すると発表した。
  ルパート・マードックは、イギリスの高級紙「タイムズ」や大衆紙「サン」を買収。アメリカでは「FOXテレビ」、映画会社「20世紀FOX」を手に入れた。彼を世界のメデイア王と呼ぶ人もいたが、ただの乗っ取り屋と蔑む人々もいた。
  二人は後に株を手放すことになるが、孫の電撃的な荒業は、日本のテレビ業界にとっては突然の黒船来航だった。政府の政策の下で長い間規制に守られていた地上波テレビ局の株を、これまで何の関係もなかった第三者が大量に取得することは、一種のタブーになっていた。しかも乗っ取り屋のイメージがつきまとうマードックと組んだのである。
  彼は天才経営者と褒めそやされる一方で、危うい経営者という正反対の評価も受けた。
  なぜあんなに急ぐのだろう。
  私は幕張で一度はマイクを向けながらほとんど忘れかけていた孫が、連日のようにメデイアに顔を出すのを眺めながら、そんな思いを抱いていた。同時に、常識に縛られない彼なら、変わらぬ日本を動かせるのではないか、という期待を抱かせた。
  ただ、彼が口にする「日本」という言葉が私は気になった。あいさつ、会見、そして彼にインタビューしたとき。孫はよく「日本は」という言い回しを使った。そのほとんどは世界の標準から見て「日本が遅れている」という内容だった。
  傲慢さも微かに感じられたが、そこには日本への激しい苛立ちと日本への強い思いがないまぜになった複雑な感情の発露が見え隠れした。
  孫が泣いた、と聞いたのはそんな時だった。
  彼を突き動かしているものは、いったい何なのだろうか。
  私は孫の内なる声をわずかでも聞いてみたいと思った。



  孫正義は、一九五七年佐賀県鳥栖市で在日韓国人三世として生まれた。孫は四人兄弟の次男だった。
  父親の三憲は十六才の時から魚の行商に歩き、二十才で結婚。二十一才の時、正義が生まれた。
  「その後畜産業を始めて、ブタを百頭ほど飼っとたんですよ。それで百頭ばかり貨車に乗せて東京に売りに行くんですよ。三日かかるんですよ。一緒に乗って行くのは大変ですよ。真っ黒になってね」
  肉親のひとりは当時の様子をこう話してくれた。孫正義が毎日経済人賞を受賞し涙ぐんだのは、このころを思い出したためだ。
  「婆ちゃんがいつもうどん屋にうどんの汁をもらいにドラム缶をつんで、リヤカーでそれをもろうてきて、ブタや牛にやっとたんですよ」
  孫がリヤカーでつるつるして気持ちが悪かった、と挨拶の中で言ったのは、うどんの汁のことだったのだろう。
  一家はその後、北九州に移った。当時の北九州は鉄鋼景気にわいていた。父親の三憲は、その景気をあてこんで商売を始め、喫茶店や金融業に手を広げた。
  当時、一家は「安本」という日本姓を名乗っていた。
  幼稚園時代、正義に国籍の問題を初めて意識させる出来事が起きる。幼稚園の友人に後ろから石を投げられたのだ。出血し、正義は泣きじゃくった。
  孫は当時のことをはっきりと覚えていた。
  「その時に、たまたま言われた言葉がすごく心の傷みたいにして残って。”何々人”っていうわけですよ。それがすごい傷みたいになって・・・・・・」
  こうした心の傷を普段は忘れていた。しかし、なぜか決まって雨の日になるとその傷が心に蘇ったと孫は漏らした。
  彼はソフトバンクを始めた後、再会して食事をした中学三年当時の担任、河東俊瑞にもその時の様子をもらしている。当時、知的障害者の施設を任されていた河東が、彼らの作った粘土の箸置きを孫に見せていたときに、先生、実は、と話し始めたという。
  「小さいころ、この朝鮮が、と言って石を投げられたんです。今でも頭にまだ傷があります」
  孫は淡々と語ったという。
  正義少年が幼稚園、小学校時代を過ごした北九州市を訪ねた。当時の鉄鋼景気に沸いた面影はなく、JR八幡駅前は日が暮れると明かりはまばらで、うら寂しいたたずまいを見せていた。
  正義が通った北九州市立引野小学校は、孫が卒業した六九年に千四百四十四人だった児童数が、九六年末現在で五百十三人とほぼ三分の一まで減っていた。校舎や校庭はがらんとし、生徒の歓声が遠くから聞こえた。
  私が会った正義の担任や友人は皆、彼のことをはっきりと覚えていた。中には現在の孫正義があの安本正義少年だと知らなかった、と驚きの表情をみせた人もいたが、それでも印象深い子だったと口を揃えた。
  正義が最も影響を受けた教師といえば、小学校五、六年の担任の三上喬だろう。
彼は小学校の校長を最後に定年を迎え、北九州市八幡東区にある「田代少年自然の家」で指導員を務めていた。
  三上を田代少年自然の家に訪ねると、彼はオリエンテーリングに参加する小学生の様子を写真のシャッターにおさめ続けていた。白髪にジャージ姿の彼は、無邪気にはしゃぐ子供たちに、嬉しそうに目を細めていた。
  彼は子供達が人形などをつくる工作室で、当時のアルバムを見せてくれた。
  「彼は、やっさんやっさんと呼ばれて皆に慕われていましたね。どの子にもやさしく、いつもたくさんの友達と遊んでいましたよ。問題点をはっきりさせてどう解決するか、考えるのが得意でしたね。材料を示してひとつずつ解きほぐすように、説得力がありました」
  三上は当時、グループごとに目標を達成させる、班教育に力を入れていた。そのリーダー格が正義だった。
  正義は、この三上を慕い教師の道をめざそうと思い始めた。
  ところが、韓国籍では、日本で教師になれないと知らされる。孫はその時の思いをこう語った。
  「小学校五、六年の時に、小学校の先生になりたいと、おやじとおふくろに言ったことがあるんですよ。そうしたらおやじがウーンってなんか口ごもるわけですよ。公務員ですから国籍が日本国籍じゃないとなれない、おまえそれは無理よということを言うから、子供たちに教育してやろうというのに何で国籍が関係あるんだと。だけど国籍を変えてまですることじゃない、こう言うわけですよ。だから僕は国籍という書類上の肩書きが邪魔になるなら、それにこだわることの方がおかしいんじゃないかと。理にかなわん納得いかん、ということを一週間くらい親に、お風呂場まで、トイレまでついていっておやじにくってかかって」
  その時彼は、日本では自分の将来を自由に選べないという現実を初めて突きつけられたのだ。
  安本家では、祖父母が日本語の他に韓国語も話していたため、自分たちが韓国人であることは正義をはじめ兄弟たちもはっきりとわかっていた。しかし差別について、とりたてて話題にすることはなかった。
  「家の中で差別がどうのこうのという話はしないですから。したら負け犬ですからね」肉親のひとりはこう振り返る。
  正義の十五歳下の弟で、東大経済学部在籍中に会社を興した泰蔵も、家庭では差別について聞いた記憶はない。
  「ネガテイブなことは聞いたことがないですね。口にすると真実になってしまうみたいなところがありますし」
  なぜ国籍が違うと自分のやりたい仕事につけないのか。正義はその後も納得できなかった。中学一年の担任、小野山美智子にもこうした思いを長い手紙にぶつけていた。
  「教師を目指し、教育のコースの大学に入りたいと思ったことがあった。しかしいろいろ調べてもらった結果、国籍うんぬんでどうしてもひっかかる。だからあきらめがたいけどあきらめざるをえない、という手紙が何枚くらいありましたかね。めんめんと書き綴ってきましたね」
  教師を目指すきっかけとなった小学五、六年の担任、三上喬には、正義は最後までこの苦しさを漏らしていない。三上は正義が韓国籍であることを知らなかったのである。当時、正義は三上と連絡ノートを交換していた。その日にあったことや、悩みを正義がノートに書き、三上がアドバイスを返していた。二人の連絡ノートは少なくとも七冊以上続いた。それでも正義はそのことには一切触れず、三上も彼が国籍で悩んでいたとは夢にも思わなかった。
  その連絡ノートの表紙に、小学校六年生の正義が詩を書いていた。「通信ノート・NO7・愛のポケット」とかかれた表紙の下半分に鉛筆で記されていた。
  タイトルは「涙」

  君は涙を流したことがあるかい。
  「あなたは」
  「おまえは」
  涙とはどんなに
  たいせつなものかわかるかい。
  それは人間としての感情を
  あらわすたいせつなものだ。
  「涙」
  涙なんて、
  流したら、はずかしかい。
  でもみんなは、涙をなが
  したくて、ながしては、
  いないよ。
  「じゅん白の、しんじゅ。」
  それは人間として、
  とうといものなのだ。
  「とうとい物なのなん
  だよ。」
  それでも、君は、はずかしい
  のかい。
  「苦しい時」
  「かなしい時」
  そして、
  「くやしい時」
  君の涙は、自然と、あふれ
  でるものだろう。
  それでも、君は、はずかしい
  のかい。
  中にはとてもざんこくな、
  涙もあるんだよ。
  それは、
  「原ばくにひげきの苦しみを
  あびせられた時の涙」
  「黒人差別の、いかりの涙」
  「ソンミ村の大ぎゃくさつ」
  世界中の、人々は今もそして
  未来も、泣きつづけるだろう。
  こんな悲劇をうったえる
  ためにも、涙はぜったいに欠
  かせないものだ。
  それでも君ははずかしいの
  かい。
  「涙とはとうといものなのだぞ」

  正義は小学校六年生でいくつかの社会問題に興味を持っていたことがわかる。原爆、黒人差別、そしてベトナム戦争中に起こったソンミ村の大虐殺を取り上げている。
  取材の途中で、正義が書いたもう一つの詩を目にした。
  正義が、中学校一年生の時に書いた詩が、クラスの学級通信に載っていた。
  タイトルは「じゅく」

  ぼくのきらいな じゅく。
  じゅくは悪まだ。
  差別を生みだすじゅく。
  エゴイズムを生みだすじゅく。
  「お金」「お金」
  うすれゆく友情。
  金をはらって行くじゅく
  コンピューターにしてしまうじゅく
  今この世にどれだけ
  ぼくらのためのじゅくがあるというのだ。
  いつかきっと
  正義の原爆がおちる時がくるぞ。
  いつかきっと。
  きっと。
  その時こそ
  ほろびるんだ。にせのじゅくが。

  この塾の詩には、将来正義が事業としてかかわることになるコンピューターが登場する。子供の頃とはいえ、コンピューターを非人間的なもの、少なくともネガテイブなイメージでとらえていたことが読み取れる。
  二つの詩に共通するのは「差別」という言葉だった。もちろん私が出会った彼の二つの詩に「差別」という言葉が入っていたのは偶然かもしれない。彼もこうした詩ばかりを書いていたわけではないだろう。それでもこれらの詩から読み取れるのは、正義が理不尽と感じるものへの怒りや憎しみだ。
  「じゅく」というタイトルの詩を学級通信に取り上げた担任、近藤龍子は、正義少年は差別については敏感だったとしながらも、回りにはそうした印象を全く見せなかったという。
  「彼は明るくて、穏やかで皆に好かれていました。いつも回りに友達がいましたよ」
  明るく振る舞っていた陰で正義の心は揺れていた。
  「僕が小学校、中学校のときに、心のどこかで国籍を隠しているという後ろめたさのようなものが・・・、なんか自分の親しい友達にすら、親友にすらそれを言ってないということに対する、ものすごい後ろめたさみたいなものがあったんですよ。あれほど仲良くしている親友にもそれを言ってないと」
  塾の詩の中で正義が書いた「差別を生み出すじゅくにいつかきっと、原爆が落ちる時がくるぞ」というフレーズからは、子供の持つストレートな過激さだけではない攻撃性すら感じさせた。
  「涙」の詩では残酷なもの、憎むべきものとして真っ先にあげた原爆が、差別をうみ出す塾には落ちる、という二重の意味での強い攻撃性が織り込まれている。さらに言えば、「正義(せいぎ)の原爆が落ちる」は「正義(まさよし)の原爆を落としてやる」とも読むこともできる。
  「明るく穏やか」な自分と、「ものすごい後ろめたさ」を感じなければならない自分の境遇とそれに対する攻撃性。十二歳の少年にとって、すさまじい葛藤だったに違いない。



  安本一家は、正義が中学一年の途中で、福岡市に引っ越す。その理由は、正義を福岡の名門修猷館高校に入れるためだった。父親の三憲の頭の中には、修猷館高校、東大というコースが描かれていた。肉親のひとりによれば、次男である正義を東大にいれるという目的だけで一家全員が引っ越し、三憲は新しい土地で商売を一からやり直したのである。
  それほど三憲にとっては、正義は特別な子どもだった。
  三憲は正義が三、四歳のころから「おまえは天才だ」と言い続けた。彼は四男の泰蔵にも天才と言って育てているが、正義の強烈な印象には遠く及ばなかった。
  正義が小学校低学年の頃のことだ。三憲が、正義が祖母に口答えをしているのを聞いて、「正義、おまえ婆ちゃんがおらんやったら生まれとらんやろうが。だから婆ちゃんに口返事(口答え)したらいかんよ」と叱った。
  すると正義が「じゃあ僕は婆ちゃんに口返事はしない。おとうさんもしたらいかんよ。とうちゃんも言い合いしよるやんね。ばあちゃんと言い合いするか、せんか、はっきり返事しろ」と父親を追いかけ回した。
  二階に退散しようとした三憲が、追いかけてくる正義を階段の途中で振り返ると、正義の顔が岩のように大きく見え、涙があふれてきた。この子は自分の子じゃない、社会のために使わなければ、正義には徹底的に勉強させよう、と考えたという。
  このエピソードは、三憲の正義への思いを雄弁に語っている。
  また三憲にとって、正義は一度言ったことは必ず実行する子だった。正義は普段、家ではどちらかというとおとなしい子だった。ところが何かを言い出す時はすでに決心が固まっていて、自分の説を曲げることはなかった。三憲はそれを意志の強さと見ながらも、一度言い出したら聞かない、危うさとしても受け止めていた。
  三憲は、正義に政治家になってもらいたいという夢を抱くようになる。そしてそれに答えるかのように正義も一時は政治家にあこがれる。
  「中学の二年か三年のときに司馬遼太郎さんの「竜馬が行く」を読んで、いやあ政治家いいぞと、なんか政治的革命を起こして、そういうスケールで何かやれたら人生血沸き肉踊るな、とこう思ったんですよ」
  ところが三憲の希望は、もっと具体的だった。三憲は密かに正義を韓国の国会議員にすることを夢見ていたのだ。南北の分断を解決する政治家になって欲しいと思い続けていた。しかしその思いは結局彼の胸にしまったままだった。



  中学3年生になった時点での正義の成績は、父親が希望していた修猷館高校に入学できるレベルには達していなかった。
  当時、福岡市には「森田塾」という有名塾があり、進学高校に多くの合格者を出していた。正義はこの塾に入りたいと、友人の三木猛義の母親、利子に相談する。
  「これからお母さんと一緒に行きます。お願いがあるんです、と言って安本くんが家に来たんです。そしてこう言うんです。北九州ではオール五だったのに、福岡に来たらオール二になってしまいました。三木くんに追いつきたいと思って、どんな勉強をしているのか聞いたら森田塾に通ってると。それで通知表を森田先生に見せに行ったら、この成績では入れてあげることができないと言われたというんです。それでおばさんからお願いしてくださいと。私が森田先生と知り合いだったもんですから。それで一緒に森田先生に頼みに行ったんです」
  そこで正義は森田をこう説得したという。自分はこれまで友人との時間を何よりも優先させてきた。一緒に遊ぶ時間を大切にしたからこそ今は成績はよくない。あなたはこれから勉強に全力投球しようという人間を、過去の成績で判断しその機会をうばうのか。納得できない。
  正義は結局、塾に入ることを許可される。
  森田塾に入った正義の成績は、順調に上がっていく。模擬試験の偏差値は十月が七十、入学試験直前の一月は六十九と、トップクラスに達している。
  森田塾の保護者会で、正義の母親が積極的に発言する姿を三木利子が何度も目にしている。森田塾の保護者会は月に一度開かれていたという。
  「保護者会であまり質問がないと、お母さんが自分から大きな声でおっしゃるんです。うちの子は森田塾に入れてもらって今度の模試は偏差値がこれくらい上がりましたって。また次の会がありますね。するとまた立ち上がって、今度は偏差値がいくつになりましたって皆の前でおっしゃるんですよ」
  当時から中学生が塾に行くのは珍しいことではない。
  だが私はどうしても正義の書いた「じゅく」という詩が頭から離れなかった。たかが詩ではないか。しかも子供のことだ。あの詩を書いた少年が、塾に行ってもなんら不思議ではないじゃないか。そう自分を納得させようとしていた私は、インタビューをしていた三上利子の口から出た次の思い出話を聞いて、さらに複雑な思いを抱くようになった。
  「中学三年のころ、安本君が森田塾に行くようになってからだと思うんですけど、私に相談があるって言うんですよ。突然、おばさん、塾を経営したいと思います、って言うんですよ。私もえー、って言ってどうして塾なんかしたいのって聞くと、僕は塾をしたいと思います、いい物件はないでしょうか、って言われたんですよ。安本くん、あなた勉強が先じゃない、あなた高校に入って勉強が先じゃない、と言うと、そうですか、って言って帰って行きましたね」
  正義は、その時の単なる思いつきで相談したのではなかった。中学三年の時の担任、河東俊瑞にも同じ話を持ちかけていた。
  河東は相談があると言われて正義にレストランに連れていかれる。
  「実は、塾を始めようと思うんです。そう言ってカリキュラムを広げて見せるんですね。私は福岡の公立、修猷館高校や城南高校をねらう塾を作りたいので、相談にのって欲しい、と言うんですよ。僕も突然で面食らってね。お父さんが金融やってるのは知ってたんやけど、まさか十五歳の少年が経営するなんてね」
  正義は自信満々といった表情だったという。河東は、見せられたカリキュラムの内容を覚えていないほどドギマギし、ちょっと待て、よく考えてみろというのが精一杯だった、と笑った。
  教師への道をあきらめた正義は、このころにはすでに経営者になろうという気持ちに傾いていたのだろう。それでも十五歳で経営を実行に移そうとしていたと聞いた時、相談された三木や河東と同じくらい私も驚いた。いい物件はありませんかと言ってのけた早熟さに対してではない。経営したいと考えた対象が「塾」だったからだ。
  教師への捨て切れぬ思いから、国籍で門を閉ざされない商売の世界で自分の理想を実現しようと考え始めたのだろうか。それとも森田塾という有名塾に行って、塾の商売がこれから伸びるというカンが働いたのだろうか。
  差別を生む塾には原爆が落ちると書いた思いと、一部の人間しか入れない有名塾に通い塾の経営を目指す意志との間にある長い距離を、正義がいとも簡単に飛び越えてしまっているように私には思えた。


  七三年三月、正義は父親の希望とは違ったが、やはり福岡の名門、久留米大学付設高校に合格を果たす。
  その春休みのことだ。正義は中学時代の親しかった友人三人と福岡の繁華街・天神に遊びに行き、喫茶店で、ある事実を告白する。現在は福岡市で小学校の教師をしている古賀一夫は、今でもその時の様子をはっきりと覚えていた。
  「雨が降り出したんで、喫茶店に入ったんです。わいわいとしばらく雑談し、ちょっとシーンとする瞬間があってね。実は、と彼が話しはじめたんです。三人が彼の顔を見ると、自分は・・・・韓国籍だ、今まで黙っとってごめん。言ってしまうと離れていきそうで言い切らんやった。そう言ったんです・・・・・・」
  正義の高校での成績は、学年で二十番から三十番くらいで、このままいけば東大に入っていただろうと、一年の担任、阿部逸郎は振り返る。ところが一年の夏休みに、正義はその後の人生を決定づける旅にでる。アメリカに一ヶ月間研修旅行に出かけたのだ。
  「日本に戦争で勝ったアメリカを見てみたか」当時、正義はその動機をこう周囲に話している。
  アメリカ旅行を決めた後、正義は、自らの姓を強く意識する場面に遭遇する。
  「最初にパスポートをとるじゃないですか。その時に初めて正式に自分は孫正義だと。自分で手続きして、あれっと。通称安本と書くわけですよ。どちらかというと本名が安本だと、こういうふうにむしろ思っていたというか、少なくとも感覚的にはそう思っていた。それが、手続きしてみると、本名が孫正義で、通称が安本と書いてあるわけですよ。待てよと、なんだこれはと」
  日本での自らのアイデンテイテイーをはっきりとした形で突きつけられた正義は、アメリカの地を踏んで大きく心を揺り動かされる。
  「いろんな人種の人が住んでいるわけですよね。それでなおかつ立派に国が成り立っていて、人々は楽しくたくましく生きていってるわけですね。そういうことを見た時に、ああなんてちっぽけなことで思い悩んでいたのかなと。そういうちっぽけなことでいちいち思い悩んだり、論議をすること自体がナンセンスやと。それはもう堂々と出せばいいじゃんと。それで石投げる人は投げさせておけばいいと」
  孫はこう話した後、さらに続けた。
  「逆にそれで石投げる人はその程度の人間なんだと、かえってかわいそうだなと。逆にその程度も乗り越えられない人なんかなと感じるようになりましたね。・・・・・・・・むしろ優越感に」
  研修旅行から帰国後、すぐに正義はアメリカに住むと宣言して、周囲を慌てさせる。母親と祖母はそんな遠いところに行く必要はないと強く反対した。父、三憲は十二指腸潰瘍をわずらって入院中だった。正義は病院を訪ね、アメリカの学校に行きたいと告げる。
  三憲は、この子は反対してもだめだ、反対すればするほど自分の考えで貫き通すとの思いから、結局アメリカ行きを許した。このとき、潰瘍に苦しんでいた三憲が「死ぬかも知らん」と言うと、正義は「死にはせんばい」と返した。
  久留米大学付設高校の担任、阿部逸郎は、思い直すよう何度も説得したが、正義の決意は固かった。
  「彼は、こう言ったんです」阿部はゆっくりと思い出しながら話した。
  「僕は韓国籍です。先生たちにはわからないでしょう。自分には日本では活躍できる場所はないんです」
  まず日本の大学を卒業してからでも遅くないんじゃないか、と阿部がさらに説得を続けたが無駄だった。
  「もうそんな時間はないんです。僕にはそんな時間は残されていないんです」
  正義の表情は穏やかで、阿部の目に写った彼は大人の顔をしていた。落ち着きはらい、ひとつひとつ言葉を選んで話す正義に逆に阿部が説得されたという。
  阿部に話を聞いた後、校内を案内してもらった。教室から漏れてくる教師の声の他は、我々のスリッパの音だけが響いた。男子校らしく、廊下の端には柔道着が無造作に置かれていた。現在は教務主任を務める阿部は、安本君は初めて担任を持った時の生徒で、いきなり学校を辞めてアメリカに行くと言い出したのだからあの時の彼の様子は忘れられないんですよ、と歩きながら私に語った。
  と、その時、突然彼は独り言のようにつぶやいた。
  「彼は、本当は・・・・こういう風に言ったんです。自分は日本では活躍できる場所はないんです。そして・・・・」
  阿部は一呼吸おいて続けた。
  「でも日本人は、アメリカで勉強した人には弱いでしょ」
  正義の口から出た「日本人は」という言い回しに、私は微かに胸がしめつけられる思いがした。パスポートを取る過程で、孫という自分のアイデンテイテイーと直接向き合い、アメリカ行きを決めた時点で、すでに安本正義と決別していたのだ。
  さらに「差別を受ける側」から、孫の言葉でいう、石を投げる人に対する「優越感を感じる側」に、あっという間に自分の立つ位置を変えていたのだ。
  アメリカに行って正義は変わったと肉親のひとりは感じている。
  「アメリカから行ってからですね。ぐっとにらんだら気持ち悪いんですね。気持ち悪いな、この野郎って。なんか・・・人を見透かすみたいなね」
  アメリカ行きを決めた正義は、東京に出て、日本マクドナルド社長の藤田を訪ねている。
  「十六歳の少年が一週間続けて私を訪ねてきた。知らない少年だったが、毎日来るので十五分間だけ会った。それが孫くんだった。彼はアメリカに行くのだが、何を勉強したらいいかと訊ねてきた」
  彼は、その前の年の一九七一年、日本マクドナルド社を設立、日本人の口には合わないとこき下ろされたハンバーガーを売り出して大当たりさせ、注目の経営者となっていた。
  正義が藤田に会いに来たのは、その年の五月に出版された彼の著書「ユダヤの商法」を読んだからだと語ったという。
  この本は、どうやったら儲かるかを解説したノウハウもので、ユダヤ人の商売の方法を紹介している。
  藤田はこの本の中で、自分がユダヤ人の生き方に引かれた理由を「差別」体験として描いている。たとえばこんな具合だ。
  「大阪で生まれた私は小さい頃外交官になりたかった。近所に住んでいた外交官に自分の夢を話した。すると、君は絶対外交官にはなれないよ、外交官は大阪弁をしゃべる奴はダメという不文律がある、とその人は哀れむような目でこういった。私の外交官への夢は一瞬にして消え去った。大阪弁というどうにもならないもののために、大阪の人間はユダヤ人と同じように生まれながらにして差別されているのである」
  「私がユダヤ人に興味を抱くようになったのは、昭和二十四年に、連合軍総司令部(GHQ)にアルバイトの通訳として勤めるようになってからである。そこで私は奇妙な連中に気がついた。将校以上の贅沢な生活をしている兵隊の存在である。そんな連中は、軍の中でも軽蔑されているのである。彼らを陰で呼ぶとき、兵隊たちは吐き捨てるような調子で、ジュウと呼ぶ。面白いことに大多数の兵士たちはユダヤ人を軽蔑しながらも頭が上がらないのだった。ユダヤ人は戦友たちに金を貸し、高利をとった上に、給料日には取り立てるのだった。くよくよするどころか、逆にそういった軽蔑する輩に金を貸し、金銭で実質的に征服しているのである」
  藤田はこれからはコンピューターの時代だと正義少年に告げる。彼は真剣な顔で聞いていた、と藤田は懐かしそうに語った。
  アメリカに行くまでの正義の一連のエピソードは、アメリカの手法を学んで日本を見返してやろうという意識すら感じさせた。
  私は、正義がアメリカに渡ることを決意した時に漏らした「日本人はアメリカで勉強した人には弱いでしょ」という言葉が心に引っかかり続けていた。
  やはり日本を見返してやろうという意識がそう言わせたのだろうか。いや、それだけではない何かがあるのではないだろうか。十六歳の少年が言い放ったこの言葉の意味をまだ私は掴みかねていた。
  正義は、一度父親のルーツが見ておきたいと言って、アメリカに行く前、祖母と二週間初めての韓国旅行をしている。
  韓国、日本という二つの国の国境の上で揺れ続けた少年は、十六歳でアメリカに渡る。そしてアメリカから中学時代の友人に宛てた手紙。
  差出人の名はもはや安本ではなかった。
  「Jung−eui Son]
  韓国語読みを英語で記した、孫正義という名がはっきりと書かれていた。



  孫正義は、アメリカに渡った後、カリフォルニア州の語学学校に半年通い、サンフランシスコ近くのセラモンテ高校に入学。その後途中退学して大学の検定試験を受け、ホーリーネームズ大学に入学した。
  「大学の校内に立ち食いの軽食レストランを寮生の夜食を対象に作ってみた。学生を常に二人雇って一日営業二時間、後片付けや準備などを入れて一日四時間、ひとり一時間当たり二・五ドル。いろいろな事があったし、知らなかったこともずいぶん学んだ。やとった人は友人なのだし、僕のパートナー(二人で半分ずつ出して作った。話を持ちかけてそそのかしたのは僕だが)も友人でとってもいい人なのだけどやはりお金がからんでくるとなかなか難しい問題も出てくるということも知った」
  七六年一月に孫が中学時代の友人に宛てた手紙には、学生相手ながら、早くも商売を試みたことが書かれていた。
  七七年四月の手紙。
  「カリフォルニア大学バークレー校一本で受験した。受験と言っても転校という形になるのだけれど、先日俺の専攻の経済学部の秘書に電話したら、俺の名を覚えていて教授委員会の会議では俺を一番で合格させると言っているらしい。あとは大学の事務局の手続き上問題がなければそのまま合格。もし問題が出てくれば(たとえば俺が高校を卒業していないとか)不合格の可能性もあるということらしい。なにしろアメリカの高校を出てなくて日本でも・・・というぐあいで俺だけ特別に日本語のテストをやらされたりで本当にいろいろ大変やった」
  その後、孫はカリフォルニア大学バークレー校に編入し経済学を学んだ。バークレー校時代の孫は、会社を設立。コンピュター関係の仕事もしたようだが、全く関係のない中古のゲーム機の輸入販売などを行っていた。
  「今は大学を終わらす事と、二つの会社の経営に夜となく昼となくおわれており、ただただ多忙な日々を過ごしておる。その会社経営の方も今では部下がそれぞれに責任持ってがんばってくれておるので俺の方はかなり助かっておる。やはり世の中は一人では渡って行けんものやとつくづく思うよ」
  この手紙からはビジネスへの熱中ぶりがうかがえる。さらに部下が責任を持ってがんばってくれている、というくだりからは、すでに事業をやりたいという思いではなく、自分は経営者だという自負心も感じられる。
  バークレー校を卒業して、日本に戻った時には、十六歳で旅立ってすでに六年以上が過ぎていた。
  どうして日本に帰ってきたのだろう・・・・・。私には、不思議に思えた。
  あれほどアメリカの自由さに引かれたのではなかったのか。
  差別の問題からも解放され、実力次第でどうにでもなると正義が感じたアメリカに残って事業家を目指してもよかったのではないだろうか。
  孫はアメリカですでに会社を起こし、事業家としてのスタートを切っていたのだ。日本にわざわざ帰ってきて、再びゼロから出発しなければならない理由は見当たらなかった。しかも日本で事業を興そうとすれば、再び国籍の問題にぶつかることは簡単に想像がついたはずだった。
  実際孫は、アメリカで名乗っていた孫という姓を、日本でも名乗り続けるかどうか選択を迫られている。
  「孫と名乗り続けるか、元の安本という姓に戻るのか、これは意思決定しなければいけなかったわけですよね。親戚とかは本当に悪いこと言わんから孫なんて名前は名乗るな、と言うわけですよ。銀行の借入とか社員の採用とか、あらゆる問題に直面するぞ、と相当こんこんと言われました。一瞬考えましたけど、子供の頃国籍を隠していたとき後ろめたさを感じ続けていたのが、アメリカに行って孫を名乗り、清々しさを感じてね。俺はもう構わないと」
  孫は、孫という名前のまま、一九八一年、ソフトバンクの前身の「日本ソフトバンク」を創業する。そこでは当初予想されたように、再び国籍の問題に突き当たる。
  「当時はほとんどの銀行がそうですけど、最初に名刺出した時に、珍しいお名前ですねって、いんぎんに言うわけですよ。正面きっては聞かないんですよ。でも何が言いたいかわかるわけですよ。最初はカチンときましたよ」
  ただでさえベンチャー企業に冷たいと言われる日本の社会において、人一倍の苦労があったに違いない。
  こうした苦労を覚悟で、なぜ日本に帰って来たのだろうか。
  「アメリカに行く時、皆に反対されて、おふくろが泣くわけですよ。家族を捨てていくのかと。そのとき僕はおふくろに固く約束していましたから、心配するな、必ず帰って来るからと約束していましたから。約束はやっぱり守らないかんと」
  ところが、アメリカ人記者のインタビューでは別の理由を話している。
  「ダイアモンド・ハーバード・ビジネス」九二年五月号のアラン・M・ウエーバーのインタビューだ。
  彼は素朴に疑問をぶつけている。
  「バークレー校を卒業した後、アメリカで企業家としてそのままやっていこうとは思わなかったのですか」
  孫は次のように答えている。
  「その点についてはずいぶん考えました。実際多くの点からみて、アメリカに残る方が有利だと考えました。友達の多くも、日本に帰ればすべて一から出直すことになるので、帰るなんて正気の沙汰ではないと言いました。すでにアメリカで会社を作っていましたし、そのまま継続させるほうがずっと楽だと思えました」
  「それなのなぜ日本に帰国する決心をなさったのですか」とウエーバーは続ける。
  「私には自分に自信があったのです。いつか自分は大きな会社を持てる、グローバルなビジネスとして会社を成功させることができる、そんな気がしていました。そういうことが出来るとすれば、本社は日本に置くべきだと思いました。日本では事業を始めることは難しいかもしれないが、いったん軌道に乗れば、日本に本社を置く方が従業員も会社のために働いてくれるだろうから、やりやすいと思ったわけです。日本人はよく働きますし、会社への忠誠心も強く、同じ会社で長く働く傾向がありますから」
  孫は日本に帰った理由を、私には母親と約束したからだと話し、一方でアメリカ人記者には、長期的にみれば日本人は会社のためによく働くからだ、と異なる説明をしている。
  私は、別の理由があったのではないか、と考え始めていた。
  孫と話している時、またカメラでのインタビューを行っている時、孫の口から「日本は」「日本人は」という言葉が幾度となく出てきた。聞くたびにその言葉は私の耳に残った。
  「今でも日本は大好きなんですよ。本当に僕好きなんです。やっぱりカレーライス食ったらおいしいと思うし、ざるそば食ったらおいしいと思うし、年越しそばを食わないとなんとなく年が明けたような気がしないし」
  インタビューの中で、孫は日本が好きだと強調した後で、こう続けた。
  「一回内側に入ってしまえば非常に日本という国はいい国ですよね。外のものに対するアレルギー、拒否反応みたいなものはありますけど」
  穏やかな顔で答える孫の顔を見ながら、私には、かつてはアウトサイダーだと自ら感じていた彼がすでに日本の内側に入ったという安心感に満ち溢れているように思えた。
  私は当初、孫が国籍の問題から解放されたのは、アメリカに渡って孫という名前を使い始めた時だと考えていた。
  だが、そうではないのかもしれない。
  彼は自分が日本の内側に入ったと感じた時、初めて解放されたのだ。そしてその時初めて、孫は差別された体験を完全に克服したのだ。
  それは「憎しみを抱いたものへの憧憬」とも言うべきものだったのではないか。差別を生むと一旦は憎んだ塾に、彼自身も入りたかったのだ。日本に対して、彼が憎しみと言う言葉であらわせるほどの気持ちを抱いたかどうかはわからない。だが自分を差別していると感じた日本に受け入れられたい、というせつないまでの思いがあったのではないだろうか。
  彼が解放されるためには、アメリカではなく日本で成功する必要があったのだ。差別の問題から自分の活躍する場所はないと一度はあとにした日本に、「帰らない」という選択はなかったのだ。
  そう考えると、彼がアメリカに渡ると決意した時に漏らした「日本人は、アメリカで勉強した人には弱いでしょ」という言葉も、別の意味合いを帯びてくる。
  単にアメリカの手法を学んで日本を見返してやろうと考えたのではなく、彼の中では、日本で認められるためには、日本が認めざるをえないアメリカに一度は行く必要があったのだ。その時からすでに、彼はいずれは日本に帰ることを心に刻み込んでいたのかもしれなかった。
  九一年十一月、孫は日本国籍を取得した。
  彼が三十四歳の時だった。
 
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Last-modified: 2008-05-05 (Mon) 21:04:54 (4060d)
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